昭和41年10月11日 朝の御理解
末永静行(№41-114-A-1)
肉体にも糧がいるように心にも心の糧がいると言うふうにみんな言います、また、私共もそう思うておりますけれど、本当に私共は心に糧を与えようと、と本当に願っておるものが大体おるだろうかと、信心させて頂いておっても本当にそう言うところをいいかげんにしておりゃせんだろうか、確かに心に糧がいることは事実、それは肉体に糧がいるように、それは絶対必要なんだけれども、本気で心に糧を与えようと思うて、その事に取り組み、その事にどうかしてその心の糧を得たい、肉体の糧を得るためにはまず、その、働かなければならん、そして、そこ何がしかの収入、それが、食べて行くためのお金になりますように、心でも糧を与えなければならないといいながら私は本当に心の糧を得るためにお互いが精進しておるだろうか、毎日お参りをして、毎日御理解を頂いて、それを心の糧にしようと思うたら、どんなにでも心の糧に出来るのです。
心の糧に本当にしようとしておるだろうか、言うなら、心の糧にしようとしておる、精進しておるとするなら、もっと心が豊に大きゅう、もっと変わりばいがしなければいけん、おかげも変わらなければ嘘なんだ、ただ頂くばっかり、一つもそれは頂くと言うても、いわば、聞くばっかり、心の糧になっていきよらない、と言うような人が大変多いように私は思うんですけどね。
いいお話をされる、そのいいお話しというのは、おいしいものがいくらおいしかってもそれはいくらおいしいものでも毎日食べよったら飽くように、やはり自分は飽かないのは、私共日本人であればまず米のご飯だと思う、飽かない。私共が日にち本気で限りなく美しゅうならせてもらう、限りなく磨かせていただこうと、そう願うことが心に糧を願うことであり、ね、なら願うためにはと言うその御理解を頂いたら、日にち同じような御理解でありましてもです、それそ本気で飽かず、私共は頂けれる信心にならなければ心はいつまでたっても成長しない、心の成長がなかったらこれはおかげは成長しないのだと、おかげだけは、おかげだけは大きくなることはないのだと分かっておるようで分かってない証拠に、私は本気で心の糧を求めておる、ね。
心に、例えば一つのひもじさというものを感じていないと言うのが本当じゃなかろうか、ね、そんならもうちっと例えば変わりばいが人間の上にもおかげの上にもしなければならん、ね、朝の御理解なら朝の御理解を心の糧として本当に頂く、血に肉にならんはずがない、心が豊に大きくならんはずがない、見たり聞いたりしておるようなものです、実際には頂いておらんのじゃなかろうか、ね、ただ、信心がなくても申しますですね、心の、人間はやはり心の糧がいると、いいながら本当にそれを糧にしておるものがどれだけおるだろうか、信心はもう本当にそこんところをはっきりしっかりと糧にしていけれるという事、それが有り難いのであり、おかげはその次に有り難いのである。おかげは有り難い、おかげが先に出てくるところに、心の糧のほうを後回しに、いや、それをあとになるところからよう心の糧にせんじゃなかろうかと思うんですね。
どうぞ。